和顔悦色施
仏教で和顔悦色施(わげんえっしきせ)という施しの行いがあると、YouTubeの高野山の法話というチャンネルで知ったのはつい最近のことである。
笑顔で優しい言葉を周りの人に伝えるという施しの行い…。
自分のみならず周りの人も幸せにする尊い行い…。
どうやったらこんな施しを行えるのだろうかと思ったり。
一瞬なれば私だって出来るかもしれないけれど。ずっと続ける自信は全くないのだ。
お地蔵さんほどの無限の慈悲を持ち合わせていないとなかなかねぇ。
でも、そういう人もいらっしゃるというのだから。
この世も捨てたもんではないと気付かされるのだ。
ということで、2022年10月1日だかに行って来た話。
高野山での話もようやく奥の院に到着することになったのである。
壇上伽藍を出てからすぐ左手に、金剛峯寺があるのだけれど。この日は寄らずにそのまままっすぐ道なりに、奥の院を目指してテクテクテックと歩いてく。
お土産屋さんやらが建ち並ぶ道であるが。
この頃はまだ、外国人観光客の入国を解禁してなかったこともあってか、何処のお土産屋さんもガラガラであった。お客よりも店員が多いっていう状況のようであった。
これは帰りにお土産を買って帰らねばと思うものの。お客さんのいない店にご来店して、店員さん全員の脚光を浴びるのはつらい。私はシャイシャイボーイ、否、シャイシャイおじさんなのだ。
一の橋を渡って参道を歩く。
いつ来てもここに入ると、ココロがシャンとする。
多くのこの世で名を馳せた方たちのお墓がここにはある。
ここでシャンとしないでどこでシャンとするというのかってなもんなのだ。
普段、ぼーっとしている顔つきも、引き締まって、通常の1.5倍凛々しくなっているはず(当社比)。
そして参道にはお地蔵さんもたくさんたくさん並んでお出迎えしてくれる。
偽善者の私でさえも、木漏れ日に照らされたやわらかな笑顔で、やさしい言葉をなげかけてくれているかのようである。
ありがとうございます。
空海さんが腰かけたと言われる石もある。
あと、姿見井戸やみろく石というのもあったり。
この参道は何度歩いても飽きはこないのだ。
歩いて行くと御廟橋という橋があって。その先は撮影禁止となる。
この辺りまで来ると、人の姿がたくさん見られるようになったけれども、それでもこの時は以前に比べれば少ない少ない。
人が少ないので、私は御廟の前の座れるトコで、長いこと居座っていられた。目の前の扉の向こうに空海さんがいるのだ。スゴイことである。
なんだか長くなってしまった高野山を歩いた話は、あっさりここで終了とするのだ。
長々とお付き合いありがとうございました。
次のお土産の紹介で、『この聖地高野山をぼんやり歩く…』は最終回とするのだ。
おわり